1.朝鮮半島と日本の文化

日本の文化、宗教、哲学などの基礎となるものの大半は中国から伝えられましたが、それらは朝鮮半島を経由したものが多く、朝鮮の影響を受けているものが少なくありません。

たとえば日本固有の文化である「茶道」についても例外ではなく、禅僧の栄西が中国セッコウ省の天目山から薬用として茶を持ち帰ったのが始まりです。
そして、それが時の室町幕府の将軍・足利義満によって社交に用いられ、やがて町民文化として村田珠光(じゅこう)によって「わび茶」の世界が開かれ、千利休(せんのりきゅう)によって今日のような茶道に確立されて来たのです。

それゆえ、利休以前の茶碗と言えばほとんどが中国から輸入されたものですが、朝鮮半島を経由した関係で、時代と共に朝鮮のものが多くなっていきました。

さらに秀吉の朝鮮出兵によってこれに拍車がかかり、湯飲みはもちろんのこと、メシ茶碗や皿など・・、日常雑器の多くが持ち帰られ、茶人の好みに応じて茶碗として珍重されるようになってゆきました。
今日、茶碗の形としてよく知られる「井戸茶碗」は、マッカリと言われるドブロクのような酒を飲む器だったと言われています。

また、このとき数多くの陶工も朝鮮から連れてこられ、たとえば現在日本を代表する萩焼(はぎやき)なども例外ではなく、毛利軍によって連れてこられた李敬(り・けい)、李勺光(り・しゃっこう)によって始められたのです。

これは茶道だけでなく、「仏教」「儒教」「書道」「水墨画」「易」(えき)、「暦」(こよみ)「建築」「漢方」・・・など、ほとんどが大なり小なり朝鮮半島の影響を受けていると言っても過言ではありません。


2.朝鮮通信使の起源は室町時代

朝鮮と日本の交流が特に盛んに行われるようになったのは室町時代からで、第三代将軍、足利義満(あしかがよしみつ)の時から室町幕府は60回以上もの使者を朝鮮に送ったということです。
しかし室町幕府が滅亡し、戦国時代に入るとこの国交は自然に消滅してしまいました。


3.豊臣秀吉の朝鮮出兵

織田信長により戦国時代に終止符が打たれ、豊臣秀吉が天下を統一すると、朝鮮半島に最も近いわが国の対馬藩(つしまはん)は、貿易の利益を求めるために朝鮮に対して日本との国交を再開するよう働きかけました。
そして、朝鮮からの使者を京都にまで案内し、豊臣秀吉に聚楽第(じゅらくだい)で引き合わせました。

この時、朝鮮通信使が持ってきた国書(手紙)には、秀吉の天下統一を祝い、これからますます国交を深めていきたいと言う意味のことが次のように書かれていました。

「速やかに信を講じ睦(むつ)を修めて、もって隣交をあつくせん」

ところが秀吉はこれを朝鮮国王から服従するように求められていると錯覚し、その翌年の1592年、突然15万人余りの兵を朝鮮半島に送り込み、一方的に戦争を始めたのです。
この戦争は秀吉が亡くなる1598年まで約6年間続き、朝鮮半島のいたるところに爪あとを残す結果になりました。


4.徳川家康の朝鮮通信使復活の努力


秀吉の死後、天下人となった徳川家康は、中国(明)や朝鮮との国交を回復するために熱心でした。
その努力のかいあって、関が原の合戦からの4年後、1604年には、朝鮮から松雲大師らの僧の一行が日本に来ることになり、徳川家康は二代目将軍の秀忠と共に京都で会見し、和解のための話し合いが行われました。


5.戦後処理から始まった国交

松雲大師はこのとき秀吉軍によって捕虜となっていた1390名を朝鮮に連れ帰ることに成功し、国交回復に対する家康の意思を朝鮮国王に伝えました。
しかし、日本に対する警戒心は根強く、朝鮮側は戦争中に国王の墓をあばいた犯人を差し出すことと、家康からの国書を求めました。

日本と朝鮮との間に立った対馬藩はこれに困り、対馬藩の罪人3人を犯人に仕立て、偽造した国書と共に朝鮮に送り、国交回復にこぎつけたと言うエピソードが残っています。
このように戦後処理から始められた朝鮮通信使ですが、最初の松雲大師一行のものを除いて、江戸時代に12回の来日がありました。